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御菓子處 総本家紙屋は、お菓子を専門とするお取り寄せができる群馬の老舗菓子店です。

電話でのお問い合わせはTEL.0274-82-3228

〒370-2601 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田361

会社案内店舗紹介

 


明治期に和紙問屋として創業それで「紙屋」

 お菓子の「総本家紙屋」は、最初は和紙問屋として商いをしていました。
和菓子の製造を始めたのは明治時代の後半、下仁田の上町が西上州姫街道、下仁田宿として盛況を極めていた頃
で、その時の屋号をそのまま使っています。現在の女将」さんは六代目。
和菓子は伝統を守った製法で、味は時代に即したものにこだわり、「万葉の峰」・「上州絹」・「上州浪漫」・「群馬の花」などと名付けて郷土の名産品として製造・販売しております。

お店だけでなく、高崎駅のイーサイト高崎《群馬いろは》などのお土産品・観光物産館、インターネットでも販売をしているので皆さん大切な方への“お土産”・“贈り物”にいかがですか。

「皆様に喜んで頂けるお菓子をつくり続けていく 総本家紙屋」をいつも心がけて日々精進しています。


会社概要

社名
有限会社 総本家紙屋 (店舗名 御菓子處 総本家紙屋)
代表者
平柳みち子
本社所在地
〒370-2601
群馬県甘楽郡下仁田町下仁田361
TEL. 0274-82-3228
FAX. 0274-82-3390
→アクセス
資本金
500万円
設立
1994年  (創業明治5年)
運営責任者
平柳 健
営業時間          定休日
9:00〜18:00                          毎週木曜日                              
E−mail
shop@okasi-kamiya.com


紙屋の歴史








多野郡上野村乙父の小学校を卒業したばかりの小須田少年が下仁田の「紙屋」に弟子入りしてきたのは、大正の初期であった。当時の「紙屋」は、3代目徳太郎時代で最も隆盛を極めた時代であった。職人、小僧を交えて十数人を抱えぬ主として駄菓子の製造・販売をしていた。菓子の製造過程も今のように材料が問屋に電話ひとつで間に合う時代と違って菓子種から自家製造をしなければならない物も随分あったらしかった。





上記のような「紙屋」の状況下にあって駄菓子の製造技術を習得しつつあった八郎少年は、持ち前の器用さと天性とも言える勘のよさが手伝って見る見るうちに技量をあげて先輩弟子達を追い抜いてしまった。町内の人々からも「紙屋」の八ちゃんと慕われ、また、とても好男子であったために若い女性達からも憧れの的であった。八ちゃんの技量と人間性に信頼を置いた店主徳太郎は、未だ幼稚だった生菓子の製造技術を営業品目に取り入れようと考え、八ちゃんを東京の菓子の老舗「塩瀬」に技術習得を依頼し、八ちゃんは日本橋の「塩瀬」に住込み店員として単身上京した。「塩瀬」でも同じように腕をめきめきと上達させ数年にして副工場長にまでなってしまった。もう、そろそろ帰ってきてもよいと「紙屋」の方から「塩瀬」に連絡したが、今度は八ちゃんの必要性を重視して、「塩瀬」の方でなかなか帰してくれなかった。





大正12年9月1日突如、関東大震災が発生し「塩瀬」も被災した。後で聞くところによると八ちゃんは、隅田川に逃げ延び、覆い被さる火の粉を防ぐために体を水に浸して水面下に身を沈め暑さを凌ぎ、「三日三晩」食べるものもなくようやくにして九死に一生を得て、着の身着のままで一週間後に「紙屋」に辿り着いたそうであった。当然のことながら、一同その安否を気遣っていた矢先でもあり、喜んで迎い入れ、我が子のように可愛がっていた徳太郎は、しばらく楽な気持ちで静養するようにさせた。体調が回復してくると八ちゃんは生菓子の製造をはじめた。下仁田でも東京と同じ生菓子が食べられるとばかりに随分に売れたらしかった。その後、南牧の新月堂の要請で2年ほど指導方々手伝った。新月堂と房月堂は親戚関係にあり、房月堂の初代も新月堂で修行していたので当然、現在の房月堂にも八ちゃんの技術は流れている筈である。八ちゃんは同僚後輩の区別なく親切に仕事の秘訣を教えてくれたので、若い小僧さんたちは「先生」と呼んでいた。





当時の「紙屋」には職人として山田元吉氏(富岡・紙本屋)、佐藤熊吉氏(宮室・山屋)、神戸六三郎氏(紙六)、島崎時雄氏(青倉・島崎屋)、清水恒吉氏(東京)の他に畠山市松さんをはじめ小僧さんも7,8人はいた。この人たちは皆、八ちゃんの指導を受けた人たちである。一時、紙又(徳太郎の異母弟)の養子になる話もあったが「俺は、婿になるために菓子屋になったんじゃない、小なりとも一店舗の主となる」とこの話を断り、当時「下仁田小町」と若い男性に騒がれた町内の大塚はるさんと結婚して仲町」新町に店を構えた。27歳の若さだった。店も随分繁盛したが、年齢わずか31歳、開店4年足らずで惜しくも4歳と生後6ヶ月の2児を残して31歳の生涯を終えてしまった。
丁度この頃、3代目徳次郎も世を去り、4代目を誰が継ぐかという難問題が起きていたときでその跡目を私の父(徳太郎の義弟)文次郎が引き継ぐことになったが、製菓技術のない文次郎が思案にくれていたときに、「親父、俺がついている何も心配するな」と励ましてくれたのが、八ちゃんだった。それだけに八ちゃんの死は文次郎には衝撃も強く、「八郎がいなければ菓子営業は止める」とまで言い出した程だった。






「紙屋」の隆盛時代からやや遅れて仲町の津保屋が盛んだったが、八ちゃんに対抗して高崎から職人を呼んで来たが、幾日も経たないうちに帰ってしまった。昔、下仁田の駅の近くに「まん竹さん」が酒まんじゅうを製造販売していた、小さい店ながら味もよいのでよく売れていた。
 八ちゃんは、東京から帰ると薬品を使用して膨らます、開花まんじゅうを始めた。酒種に対して文明開化の言葉から薬品まんじゅうを「開花まんじゅう」と呼んだ。これが現在の下仁田周辺で売られている「まんじゅう」である。また、下仁田の「あんこ」は旨いと言われるが、これも八ちゃんが始めたのが最初であった。





私は現在「紙屋」の5代目として店舗をはっているが「紙屋」が続く限り、八ちゃんの秘伝を活かし店の発展を図っていく努力を続けている。
 そして、下仁田周辺の営業者は、この小須田八郎氏の残した尊い技術を不滅のものとして活かし、業界発展の礎とすることを願う次第である。

                                
                                
                                         昭和57年1月20日

紙屋  5代目 平柳喜代二









 御菓子處 総本家紙屋

 〒370-2601
 群馬県 甘楽郡
 下仁田町下仁田361

 
TEL.0274-82-3228
 
FAX.0274-82-3390
ssshop@okashi-kamiya.com